BOOK

理科大生に贈る一冊 第11回 『舞姫』

『舞姫』を読み直す

森鴎外の『舞姫』は恐らくほとんどの方が読んだことのある作品のはずです。

この作品が高校の国語教科書に掲載されてから久しく、多くの日本人がこの作品の救いのない――あるいは胸くその悪い――ストーリーと雅文体の読みにくい文章を解読するのに貴重な高校生活の一部を費やしたことと思います。

この作品が好きな人・嫌いな人、面白いと思った人・つまらないと思った人、今でも内容を覚えている人・全然覚えていない人、様々だと思いますが、私はここで皆さんに、『舞姫』を読み直すということを提案したいと思うのです。

同じ作品を何度も読み直すことは、1つの物語を通して自分自身の変化・成長を実感するという営みです。そして何より、ここまで多くの人に読まれている・知られている作品は他にあまりありませんから『舞姫』について誰かと意見を交換することが、その人の事を深く知る糸口になる――かもしれません。

ストーリー

『舞姫』は、勤勉だけが取り柄で主体性のない青年太田豊太郎の手記の形をとっており、留学中のドイツでエリスという貧しい踊り子を助けるところから話が動き出します。その後、豊太郎の母の訃報や日本からの奨学支援停止などを通して2人は深い仲になっていくのですが、この豊太郎がとにかく不甲斐ない人間なのです。

友人の相沢に将来のためにエリスと縁を切れと言われて口先だけで約束してしまったり、大臣にロシアまで同行するよう頼まれ断れずに身重のエリスをおいて長期出張に行ってしまったりした挙げ句、その大臣に能力を買われ一緒に日本に帰ろうと言われて頷いてしまいます。豊太郎が帰国することと、相沢にエリスと縁を切ると約束していたことを知ったエリスは半狂乱となりますが、豊太郎は精神を病んだエリスとこれから生まれてくる子どもを置いて日本へと発ってしまうのです。

手記の最後で豊太郎は「俺も苦しんでるんだ」というアピールと「相沢が約束のことをバラしたのが悪い」という見当違いの非難を書き記して筆を置き、物語は終わります。

余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍(かばね)を抱きて千行(ちすぢ)の涙を濺そゝぎしは幾度ぞ。大臣に随ひて帰東の途に上ぼりしときは、相沢と議(は)かりてエリスが母に微(かす)かなる生計(たつき)を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
 嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡(なうり)に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。

この話から何が学べるか

なぜこんなにも悲痛で後味の悪い物語が教科書に載っているか、については様々な意見がありますが、ここではこの物語から私達がどのようなことを学べるかを考えたいと思います。

豊太郎は「逆のび太」デフォルメされた「普通の奴」

豊太郎の不甲斐なさと腹立たしさは読んだ人の多くが共感してくれるものでしょう。

とにかく自分の意志がなく、否と言えず、深く考えずに相手の言うことに頷いて自分や周囲を苦しめてばかりです。その上たちが悪いのが、自分でそのことを自覚しているような口ぶりで「自分はこういうところが駄目なんだ」「自分のこういうところが情けないんだ」と言い訳がましいことやすべて自分で蒔いた種なのに、そのために深く苦悩している様子やひどくショックを受けている様子を読者に対してアピールしてくること。そのくせ少しでも評価されるとすぐに調子に乗るとんでもない人間です。

ここまで聞いて、豊太郎のことを好きになれる人はあまりいないと思いますが、それはひょっとしたら豊太郎の中に「自分の嫌いな自分の姿」を見ているからかもしれません。

ドラえもんの主人公野比のび太は極限までデフォルメされた「できない奴」で、それでもめげずに一歩一歩前に進もうと頑張る姿が人々の共感を呼び、誰にでも愛される国民的主人公になれたのです。

だとしたら豊太郎は丁度その逆と言えるかもしれません。能力的には高いものをもっているはずなのですが、意志も覚悟もなく、責任転嫁と自己弁護ばかりで、まったく前に進まない、まさしく「逆のび太」です。この姿が、読者に対してのび太とはまったく異なる共感を呼び起こさせるのです。自分の嫌な部分、過去の後悔、日常の不満、豊太郎の言動が刺激するのはそういう記憶です。

つまり豊太郎はネガティブな方向にデフォルメされた「普通の奴」、誰もが心に抱えていながら、絶対にこうはなるまいと忌み嫌う「普通の弱い奴」なんだろうと私は思うのです。

そういう視点で読み直してみると、少し違った風にみえるかもしれません。それで好きになれるかどうかは別ですが。

大洋に舵(かぢ)を失ひしふな人が、遙(はるか)なる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼(はうしん)なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。貧きが中にも楽しきは今の生活(なりはひ)、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑(しばら)く友の言(こと)に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対(こた)へぬが常なり。

描かれているのは「普通の奴」が正義の味方になる難しさ

この物語は豊太郎がエリスを助けたことがすべてのきっかけとなって動き出しますが、私はこの「誰かを助ける」という行為自体が、豊太郎の人生においてかなりイレギュラーなものだったんだと考えています。

留学先のドイツで周囲と壁を作って孤立を深めていた豊太郎が、道端で泣くエリスに声をかけたのは言ってしまえば一時の気の迷いで、彼は元来そんな人間ではないのです。

古今東西正義の味方はたくさんいますが、皆自分が助けた人と深い関係を持つことを避けています。「せめてお名前だけでも」と言われても「名乗るほどの者ではござらん」と立ち去る彼らは、助けた人と個人的な関係を持つことの危うさを知っていて、鋼の意志で拒んでいるのです。

例えばあなたが誰かの命や命より大事なものが危険にさらされているのを目の当たりにしたとして、そしてそれを見事救うことができたといて、目に涙を浮かべて感謝する相手に対して「名乗るほどの者ではありませんよ」と颯爽と立ち去ることができるでしょうか。

豊太郎はそれができませんでした。人を助けた経験も鋼の意志も持ち合わせていない豊太郎は、その後エリスからの愛に流され、友人の助言に流され、自らの欲に流され、どんどん物語を悲劇へと向かわせていくのです。

困っている人は助けるべきです。これは絶対の事実です。でもその上で、助けた後の振る舞い方も考えておくべきかもしれません。もしあなたが豊太郎になりたくないのなら――。

彼は料(はか)らぬ深き歎きに遭(あ)ひて、前後を顧みる遑(いとま)なく、こゝに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫(れんびん)の情に打ち勝たれて、余は覚えず側(そば)に倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累(けいるゐ)なき外人(よそびと)は、却(かへ)りて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながらわが大胆なるに呆(あき)れたり。

まとめ

長々と語ってまいりましたが、いかがでしょうか。『舞姫』は著作権が切れているため、インターネットの図書館「青空文庫( https://www.aozora.gr.jp/index.html )」で無料で読むことができます。

みなさんも是非『舞姫』を読み返し、大学生になった今思う所を色々と考えてみてください。そして、初対面のおしゃべりの話題としてサークルや出身地を聞く前に、「高校でやった『舞姫』についてどう思う?」と聞いてみてはいかがでしょうか。なんて、流石にこれは冗談ですが。

板垣幸佑