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過剰適応

「本当の自分を出せるところがない」とつぶやいた彼女の特徴ある発音と、制服の襟元でくるくると髪をいじる指先だけが浮かび上がっては消える。彼女とは特別親しかったわけではなく、たまたま選択授業が一緒だっただけ、遠く中学時代の記憶だ。名前は、思い出そうと1分考えてやめた。

ありがちな訴えではある。私は、大変だね、とだけ返した気がする。
何故今頃になって思い出してしまうのだろう。いや、思い出すというよりは自動的な、夢のように翻弄される感覚。
おぼろげに浮かび上がる問いは即ち、「本当の自分って、いるの?」

それなりに年齢を重ね、つまらない場数を踏み、適応した結果の様々な自分。バイト先では真面目な好青年、友達の間では兄貴分、女の子の前では頼れる男となるよう苦慮している。そんな風に適応していく事に苦はなく、不満を感じたところで逃げることはできないと悟ってからはなにも感じなくなった。そのうちに、何も合わせるべきものがない、という状態での自分も消えた。
楽しみがない訳ではない。不満もない。でも、自分の主格もみつからないのだ。
きっと新しい環境に踏み込んだところで、そこに上手く溶け込むだめの人格が形成されるだけ。

特に不都合も感じないままに身体だけが蝕まれてゆく。医者は口を揃えてストレスのせいだと言う。自分を大事にしろ、なんて笑うしかない。どこにいるかもわからないものを大事にできる訳などない。

あの彼女だったらなんて言うだろう――。

がしゃん、と小気味よい音に我に返る。風に揺れたカーテンがコップを倒していた。幸いなことに割れてはいない。
流れ出るミネラルウォーターが、溢れる涙のようだった。

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書評

重松清「半パン・デイズ」

大人になってからの6年間と小学生時代の6年間は、同じ数字なのに、その密度が大きく違ってくる。これからの私達が送る6年間は、いわゆる経験の積み重ねにすぎないのだろうが、彼らの6年間はまさに学びの塊なのであろう。空を [...]

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