- 2009-11-29 (日) 18:40
- コラム
知識とは、ひけらかすものではなく、何かを生み出す手段の一つに過ぎない。それ自体を持つことに意味はなく、そこから伸びる発明の芽にこそ、計り知れないほどの価値がある。しかし、最近の勉強というものは、知識という種ばかりを植えつけることに熱心で、水をあげて芽を出すことに疎い気がしてならない。
学校の教科書を開いてみると、そこには多くの知識が収められている。それらはすでに「過去に起こった出来事」であり、決して新しいものではない。しかし、多くの人は、それを見た瞬間に「新しいもの」として受け入れ、まるで新しい発見でもしたかのような錯覚に陥る。教科書を開けば開くほど、何か新たらしい発見をしている感覚になる。故に、それを知識であるとは認識しない。発明の芽は、伸びない。
新しい発見のために用意された膨大な情報が、新しい発見の邪魔をしているのだ。もちろん、過去の出来事を知識として参考にするのは大いに有益であるのだが、その量が膨大であるため、未来よりも過去に注目が向いてしまう。
人間が空を飛ぶこの時代、欲しい情報を何時でも何処でも手に入れられるこの時代、学びたいと思えばどんな知識でも手に入る。だが、一度そのような知識をすべて取っ払って、ゼロの自分で物事を考えてみる必要があると思う。すでに用意され1を100にするような時代は過ぎ去った。今求められているのは、知識に頼らないゼロの人間である。
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